播磨の酒 八重垣
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  山田錦の素顔

 山田穂誕生をめぐる三つの伝承のうち、二つに疑問符が付く中で、比較的正確な資料で裏付けられ、説得性を持ってその由来を教えてくれるのが、中町誕生説である。

 現在の多可郡中町安田。町内南東部の谷あいに広がるこの地域は、古くから良質米の産地として知られ、安田産の米は「安田米」と呼び習わされていた。

 その東安田に江戸時代から続く豪農・山田家があった。毎年、二千俵の米を収穫、酒造家へも出荷していた。「安田の山田か」「山田の安田か」などと賞されるほどだった。

 天保14年(1843)、この山田家に、勢三郎が生まれた。彼は、豪農の家風を受け継ぎ、米の増産に励む。特に、産米改良に心血を注ぎ、小作人を励ますためにタオルを配るなどして「良質米」の生産を呼び掛けた。いい米を持ってきた者には、新しい農機具を与えてねぎらった。もちろん、自らも、田に出て積極的に産米改良に当たっていた。

 明治10年ごろだったいう。勢三郎は、自分の水田に、ひときわ大きな粒を持った稲穂を発見した。胸をときめかせながら、密かに栽培実験を繰り返す。

 結果は、程なく出た。成功だった。見事な大粒ぞろいの新種が育った。酒米として、これ以上のものはないとの自信を持った。そして、自らの姓をとって、この大粒米を「山田穂」と名付けたというのである。

 山田穂の評判は、酒造家の間に一気に広まった。山田家の田から生まれた新しい種子は、小作は近隣農家にも、鷹揚に、そして積極的に配られた。栽培面積も急速に拡大する。

 酒米として出荷する際、俵ごとに「山田穂」という焼き印を押した。一般の米との「差別化」を図る、巧みな商標作戦でもあった。

 こうして、「山田穂」は、明治の酒造米の王者としての地位を確立し、「山田穂」誕生の基礎を固めるのである。

 こうした山田勢三郎の功労を称え、明治36年、現在の中町東安田石原坂の小高い丘に、業績を刻んだ「頌徳碑」が建てられた。勢三郎が、還暦を迎えた年であった。

 さまざまな資料や口伝から、この「中町・山田勢三郎説」が、山田穂誕生を物語る最も確かなエピソードであろう。

 

「山田錦」発祥の町、中町

 
産米改良に尽力した山田勢三郎の頌徳碑(中町東安田)

 山田穂と山田錦の”ドラマ”は、以上のとおりだ。多くの生誕説があるのも、山田穂、山田錦のずば抜けた品質のせいであろう。

 この”玉のような米”が生まれるには、これまで見てきたような、多くの人々の米にかける情熱があったからだ。情熱は、創造力につながり、夢の商品が生まれる。

 同時に忘れてはならないのが、生育環境である。

 良質の水がきれいな米つくる。

 東西に広がる谷は、南からの海風を寄せ付けず、稲がよく眠れるのだという。眠れば育つのは人間と同じだそうだ。

 昼夜の温度差が大きいのも格好の条件だ。植物は昼間に養分を吸収する。夜はそれを放出しないように眠る。稲も呼吸するのだが、温度が高ければ、呼吸は激しく、エネルギーを消費する。低いとエネルギー放出は押えられる。夜の気温が昼とそう変わらなければ稲の呼吸も昼間並に激しい。逆に昼間より低くなると呼吸は緩やかになり、稲自信のエネルギーが蓄えられる。エネルギーのたまった稲は大粒になるというわけだ。

 土質も重要だ。山田錦の産地は、豊饒な表土の下に粘土質の層がある。粘土質は裂け目も多く、根が張りやすいし、普通の土に比べ、養分を引きつける力が十倍も強い。よく育つはずだ。

 こんな北播磨の風土の中で、山田穂と山田錦は、生まれるべくして生まれた 「素晴らしき文化遺産」なのである。

 

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