播磨の酒 八重垣
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  山田錦の素顔
山田錦の育ての親、藤川禎次(酒米試験地提供)

 この新しい試験地に登場するのが、初代主任・藤川禎次である。

 実験室で成功しても、一般農家での栽培に耐えられるかどうか分からない。藤川は、試験地の技術者とともに、新種の水田栽培に挑むことになる。”保育器”から出た赤ん坊を、ベッドに移し育てるようなものだ。一人前に育てるために、粒揃えを安定させ、病害虫にも抵抗力を付け、風にも強くなる体力を付けなければならない。そのための「栄養」をどう付けるか。「育て親」としての藤川の根気強い取り組みが続けられた。

 新種の名前は、まだなかった。4年後の昭和7年、ようやく栽培の可能性が見えた。そのとき二つの種類に仮の名が付いた。「大粒50-7」「大粒50-11」といった。

 その年、新交配種は、初めて、一般農家の手で育てられることになった。といっても、まだ実験栽培である。「7」と「11」の優劣が比べられ、「大粒-7」のほうが育ちがいい子であることが分かった。

 翌昭和8年、「大粒」は、山田穂・渡船という両親の頭文字を取って「山渡50-7」と名を変えた。これからが本格育成である。試験地あげての挑戦は、なお続いた。

 兵庫県内の神崎郡,佐用郡,美嚢郡,有馬郡などの農家の協力で、「山渡50-7」と、その系統の何種かの新種を実験栽培し、再び優劣確認を行ったのである。

 2年後、その結果が出た。「山渡50-7」が有望との結論だった。新種の選抜固定は、これで完成し、酒造革命をもたらす大粒の新しい酒米がデビューすることになる。

 昭和11年、「山渡50-7」は、その名も母方の「山田穂」に敬意を表して「山田錦」と命名された。同時に、兵庫県の推奨品種として認められ、広く一般農家に栽培されていくのである。

 苦闘13年。試験地の、地道だが、たぎる情熱が「山田錦」誕生させたのである。

 ここで誕生した「山田錦」の原々種は、試験地の「知的遺産」として、今も丁寧に保存され、誇らし気な光を放ち続けている。


「山田錦」の誕生ストーリーは、以上の通りだが、問題は、その類いまれな品質を誇る母方「山田穂」のルーツである。

「山田穂」は、どこで生まれたのか。語り継がれている「物語」は、三つある。

 現在の神戸市北区山田町藍那説。美嚢郡吉川町説。そして、多可郡中町説である。

 まず神戸・山田町藍那説を検証する。藍那は、元八部郡山田村藍那。この説は、昭和35年、神戸市農政局・神戸酒米協会発行の「神戸酒米のしおり」の中で「藍那穂由来記」として紹介されている。それによると――

 灘の酒造家の多くは、古くから、酒造米として中上米と呼ばれていた摂津・茨木周辺の米を使っていた。大粒で、酒造に大いに適し、人気があったという。

 その優良米を藍那でも作ろうと考えたのが同地の東田勘兵衛であった。苦心の末、茨木・雌垣村から、その種子を入手、栽培に成功した。心白の出もよく、つや、香りのいい酒が造れると、蔵元の評判は上々だった。

 明治23年(1890)、第3回内国勧業博覧会に「藍那で作った雌垣米」として出荷したところ、日本一と高い評価を得た。他産地の米より高い価格で取り引きされ始めたため、さらに評判が上がり、近郊農村から藍那へ、競って種子の提供を求める声が強まり、急激に栽培が広まったという。

 この大粒の種子を、地名を取って「藍那穂」あるいは「山田穂」と呼ぶようになった――これが「神戸・山田町説」である。

 しかし、最近、この説に対し異論が出ている。藍那で初めて「藍那穂」「山田穂」と呼ばれるようになったとされる明治23年の勧業博以前に、「山田穂」なる呼称が使われていたという資料が発見されたのだ。

 それは勧業博の2年前、明治21年に灘・新在家の酒造業者(松岡宗七)の酒米の仕入れ記録である。その帳簿には「山田穂」を49俵仕入れたとの記載が残されている。藍那で、山田穂を名乗る以前から、その名があったということは、今のところ「山田町発祥説」は成立しないことになる。

 もう一つ、美嚢郡吉川村(吉川町)発祥説がある。これは「兵庫の酒米」(昭和36年刊 兵庫県酒米振興会編)に「吉川町でひろった話題」として収録されている。

 それによると、吉川村の田中新三郎が伊勢参りの途中に、草丈が高く、穂の大きな”ほれぼれするような”稲を見つけた。時代の特定はできていないが、明治初期とみられる。当時、吉川村では、盛んに酒米の栽培が行われており「これは酒米として大いに使える」と思い、田中は、その一穂を持ち帰った。

 自分の田で試作したところ、立派な酒米ができ、酒造家からも好評だった。伊勢参りの縁から、伊勢山田の地名にちなみ、この大粒の穂を「山田穂」と名付けたのだという。

 この物語は、地域で語り継がれているのだが、それほどの業績なら、何かの記録が残っていそうなものだが、今のところ、裏付け資料は見つかっていない。「風説の域」を脱するため、現在、同町では本格的な調査を始めている。

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