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「山田錦」の誕生ストーリーは、以上の通りだが、問題は、その類いまれな品質を誇る母方「山田穂」のルーツである。
「山田穂」は、どこで生まれたのか。語り継がれている「物語」は、三つある。
現在の神戸市北区山田町藍那説。美嚢郡吉川町説。そして、多可郡中町説である。
まず神戸・山田町藍那説を検証する。藍那は、元八部郡山田村藍那。この説は、昭和35年、神戸市農政局・神戸酒米協会発行の「神戸酒米のしおり」の中で「藍那穂由来記」として紹介されている。それによると――
灘の酒造家の多くは、古くから、酒造米として中上米と呼ばれていた摂津・茨木周辺の米を使っていた。大粒で、酒造に大いに適し、人気があったという。
その優良米を藍那でも作ろうと考えたのが同地の東田勘兵衛であった。苦心の末、茨木・雌垣村から、その種子を入手、栽培に成功した。心白の出もよく、つや、香りのいい酒が造れると、蔵元の評判は上々だった。
明治23年(1890)、第3回内国勧業博覧会に「藍那で作った雌垣米」として出荷したところ、日本一と高い評価を得た。他産地の米より高い価格で取り引きされ始めたため、さらに評判が上がり、近郊農村から藍那へ、競って種子の提供を求める声が強まり、急激に栽培が広まったという。
この大粒の種子を、地名を取って「藍那穂」あるいは「山田穂」と呼ぶようになった――これが「神戸・山田町説」である。
しかし、最近、この説に対し異論が出ている。藍那で初めて「藍那穂」「山田穂」と呼ばれるようになったとされる明治23年の勧業博以前に、「山田穂」なる呼称が使われていたという資料が発見されたのだ。
それは勧業博の2年前、明治21年に灘・新在家の酒造業者(松岡宗七)の酒米の仕入れ記録である。その帳簿には「山田穂」を49俵仕入れたとの記載が残されている。藍那で、山田穂を名乗る以前から、その名があったということは、今のところ「山田町発祥説」は成立しないことになる。
もう一つ、美嚢郡吉川村(吉川町)発祥説がある。これは「兵庫の酒米」(昭和36年刊 兵庫県酒米振興会編)に「吉川町でひろった話題」として収録されている。
それによると、吉川村の田中新三郎が伊勢参りの途中に、草丈が高く、穂の大きな”ほれぼれするような”稲を見つけた。時代の特定はできていないが、明治初期とみられる。当時、吉川村では、盛んに酒米の栽培が行われており「これは酒米として大いに使える」と思い、田中は、その一穂を持ち帰った。
自分の田で試作したところ、立派な酒米ができ、酒造家からも好評だった。伊勢参りの縁から、伊勢山田の地名にちなみ、この大粒の穂を「山田穂」と名付けたのだという。
この物語は、地域で語り継がれているのだが、それほどの業績なら、何かの記録が残っていそうなものだが、今のところ、裏付け資料は見つかっていない。「風説の域」を脱するため、現在、同町では本格的な調査を始めている。
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