播磨の酒 八重垣
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  田中杜氏インタビュー
田中杜氏紹介
「蔵の杜氏」編 「故郷の杜氏」編 田中杜氏紹介

田中杜氏(写真)

昭和17年3月1日、但馬杜氏の郷・美方郡温泉町に生まれた。 父も叔父も杜氏という環境の下で育った田中は、中学校を卒業と同時に父が務める加東郡の岸田酒造合資会社へ入社、飯炊きからはじめて10年の歳月を修行に費やし、 次に愛知県豊橋市の福井酒造に頭として3年間務めた。
その後兵庫県杜氏大学を卒業し、昭和46年、この世界では珍しい28歳という若さで杜氏として八重垣に入社する。 その2年後、先代社長・長谷川勘三の英断で八重垣の酒造りは、自動製麹機を 使わない手造り(蓋麹法)に転換。 以来、田中は先代社長の意思を引き継ぎ徹底して手造りにこだわり、上質の酒を求め続けている。

但馬杜氏 田中博和 略歴
昭和17年3月 兵庫県美方郡温泉町に生まれる
昭和31年〜34年 飯屋
昭和34年〜36年  もと屋
昭和36年〜43年  代司
昭和43年〜46年 
昭和46年〜 

ヤヱガキ酒造 杜氏就任   現在に至る


八重垣と田中杜氏 -3つの言葉‐

『心で造るからこそ、心を潤す酒となる』

これは、八重垣但馬杜氏「田中博和」の酒造りのモットーである。

「酒は心で造るもの」
「酒造りをたんに仕事と割りきって考えてもらっては困る。自分の子供を育てると考えたらいい。昼夜なく心を配り、手をかけて大切に造り上げていくものだから」。

自らの酒造りのポリシー「酒は心で造るもの」の意味をこう語り、人をひきつけて離さない明朗快活な田中の人柄。あくなき探究心、揺るぎない自信で八重垣の酒造りをいまも支え続けている。

『いい酒を造るにはいい米といい水が必須条件だ』

八重垣が使っている米は全国に名だたる播州産酒造好適米・山田錦と鹿ケ壷(天然記念物の渓谷)を源とする林田川の伏流水。

この素晴らしい素材をいかしきるために杜氏は、洗米の段階から細心の注意を払う。そして麹造りには一升盛りの木箱「麹蓋」を使い、蓋一枚一枚、麹の温度を肌で感じて自分の手と勘とを頼りに造っていく。

機械にはできない丹念できめ細やかな作業である。またもとも手のかかる山廃造りに変えた。子供が乳を欲しがっていれば乳を与えてやるように、育ちつつある酒がなにを求めているか、酒と話をしながら温度や糖分などを調整する。 酒と話をするには、年季と信念が必要だ。

そして酒造りに対する情熱から、普段は気さくな田中も蔵に入ると徹底的に厳しくなる。 それゆえ、自分より年上という蔵人たちをも遠慮なく叱咤激励する。

『万人に飲まれる酒でなく、万人の一人に飲まれる酒を』

田中にとって先代社長・長谷川勘三の存在は大きい。 若い田中の杜氏としての力量と可能性を認めて採用を決定した人である。 そして、先代社長が行なった手造り路線への変更は、手造りで酒造りを学んできた田中にとって才能をいかんなく発揮するきっかけになったといえる。

大学で醗酵工学を学んだ先代社長は、酒造りに関しても熱心な指導者であった。田中は、いい酒を造る科学的な方法論を彼から学びその考えを尊重して研究していった。 先代社長はまた、八重垣の酒をこよなく愛し、酒銘に確固たるポリシーを持っていた。 酸が多く、味が濃く、辛口でなければ八重垣の酒ではないと言い続け、例え顧客が誰も飲まなくても主人の自分が飲む、と断言していた。 この思い入れが、八重垣の個性を創り上げたのだ。

『万人に飲まれる酒でなく、万人の一人に飲まれる酒を』を−先代社長の意思を受け継いだ現社長・長谷川雄三もまた、この伝統を継承していこうとしている。

酒造りに熱い情熱を注ぎ込むふたりの社長の下での永きにわたる努力と研鑽が、平成5年に実を結んだ。八重垣の酒はついに全国新酒鑑評会で金賞を受賞。 翌6年も受賞するという快挙をなし遂げたのだ。数ある酒のなかから選ばれる、酒を造るものにとってこの上ない栄誉を勝ち取ったのである。

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ヤヱガキ酒造株式会社