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勘三が自社用に発明した数々の長谷川式醸造機械は、昭和40年代に入ってからも業界の注目を集め、各社からの販売依頼の殺到や、経営コンサルタントのアドバイスなどによって外販を決定。40年4月には、ヤヱガキ酒造(株)に機械事業部を設立。経済成長を続ける社会状況にあって、41年12月には1ヶ月だけで販売1,016石を果たした。これは現在でも破られていない、ヤヱガキ史上一位の成績である。
ヤヱガキ醸造機械(株)は、45年、営業方針を一変する。ヤヱガキ酒造(株)より社員を移籍させ、酒造りのプロによって、機械の据え付けからアフターケアまでサービスを徹底化させるのだ。これによって社員は休日返上で日本全国を駆けめぐることになるが、業績は更に急上昇した。
純粋日本酒協会を昭和48年につくった長谷川勘三は、全国醸造清酒協会を50年に発足。勘三はこの後、日本酒、それも大手メーカーが造るものではなく各地の酒造家が真摯に造る酒、「地酒」のPRにつとめる。
清酒や焼酎、アルコール、合成清酒の酒造組合などの役職を歴任してきた勘三は、昭和55年5月、新たに日本蒸留酒造組合副理事長に就任。そして同年11月3日、長谷川合資会社以来の酒造りと業界の団体での多くの活躍、いいかえれば「多年酒造業に携り品質向上に努め関係団体の指導にあたり業界発展に寄与した」ことのより、国から表彰され、藍綬褒章(らんじゅほうしょう)を受け賜る。さらに58年11月には大蔵大臣表彰も受けている。
50年代後半、ヤヱガキ酒造(株)に、もうひとつの朗報が東京の居酒屋から届く。チューハイブーム。低迷していた焼酎需要をいっきに伸ばした現象である。純米焼酎「甲(かぶと)」のブランドと新しい飲み方提案PRを、姫路中心にこつこつと続けてきたスタッフへの、なによりのニュースだった。52年販売当初は数えられるくらいしか売れなかった「甲」は、この後、ヤヱガキの一大ブランドに成長していくのだ。
「甲」は、甲類焼酎であるがサラリとした味わいの中に、ほのかな原料の香りを残している。勘三は、本格焼酎でもそんなタイプをつくろうと酒造の研究者たちと検討していた。パンや乳酸飲料など様々な原料を使い、新しい本格焼酎の試験醸造を行った。新しい蒸留機を導入したり、研究員を九州の焼酎メーカーでの研修に参加させたりした。そして、59年には大麦を原料とする本格焼酎「あらき」が誕生したのだ。「あらき」もまた、人気商品の一つとなっていく。
深い技術力と商品に対するこだわり、社員の熱意の結晶がヤヱガキの成長を飛躍させた。
それは、21世紀となった今も変わらない。
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