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勘三は、大阪帝国大学工学部吟醸造課を卒業後、同大学の助手のまま軍から命じられた航空燃料用アルコールの製造に着手。原料は与えられたが、製造設備は自らがつくらなければならず、材料調達は困難を極めた。「ないものは、自分でつくる」酒樽を40段積み重ね、自宅の銅の桶や看板を外して使い連続蒸留機をつくり上げた。苦心の末にでき上がったこの機器によって、94度のアルコールをつくることができたのだ。
20年に入ると兵庫県においても空襲が本格化。酒造地帯も壊滅的な被害にあう、そして終戦。
9月、勘三は大学を辞任し長谷川合資会社に入社。進駐軍に徴集されないよう隠していた日本軍支給の高粱(こうりゃん)で、10人足らずの社員とともに焼酎製造をはじめ、翌年8月代表のひとりに就任。
焼酎の研究をしていた勘三は、21年製パン用イーストと飴、パン焼き器を開発。イーストは、焼酎原料と払い下げの爆雷を改造した設備からつくった。長谷川家に隣接する和菓子店千古堂の千古勉氏や近隣の住民の協力を得て、一般家庭やパン製造会社へ販売する事業が23年頃まで続いた。
焼酎原料は、高粱から、甘藷(かんしょ)・切干甘藷(きりぼしかんしょ)中心に変わっていった。設備は、勘三の発想で次第に近代化されていく。焼酎は当初硫酸を使って糖化していたが、23年頃より麹による糖化に成功、生産効率を上げた。27年には貫一升(甘藷3.75kgで焼酎1.8Lをつくる)の目標が達成。後に清酒と並ぶ代表商品となる、焼酎の草創期だった。
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