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改正の度に増税を重ねてきた酒税法への反対の気運が高まるなか、明治14年、長谷川家に新しい酒銘が生まれた。その名は、「八重墻(やゑがき)」。
後に社名となるこの酒銘は、林田の地にふさわしく古事記や日本書紀で登場する歌にちなんでいる。歌を詠んだのは、播州を拓いた大国主命の祖先にあたる速須佐男命(はやすさのおのみこと)である。
出雲の国での八俣遠呂智(やまたのおろち)を退治し、櫛名田比売(くしなだひめ)と結婚。多くの神々、御両親の祝福を受けたこの結婚は、和合結婚のはじまりとされている。そして、ともに住まう新居を建てた際、その喜びを「八雲たつ
出雲やゑがき つま隠みに やゑがきつくる そのやゑがきを」(<八雲立つ>出雲の八重墻。その盛んに湧き出ずる雲が、妻をこもらせるために、宮のめぐりに、その見事な雲の八重墻をつくるよ)と歌った。心からあふれでる喜びを大らかに歌いあげた、おめでたい酒銘なのである。
清酒「八重墻」は、増税など厳しい酒税法にもめげず、年々、造石高を増やしていった。大正3年、長谷川栄雅から数えて10代目当主、長谷川勘二は、酒類製造・販売業を主に副業として精米と精白米の売買を行う法人組織を設立した。長谷川合資会社の誕生である。
そして長谷川合資会社は、第1次世界大戦の好景気に乗じて、大正6、7年頃には戦前における最高生産1,800石を記録する。
大正7年、長谷川合資会社にとって、もうひとつの大きな出来事があった。1月11日、長谷川勘三が誕生。
後に、ヤヱガキの歴史を大きく前進させ、また、中小酒造会社の発展に寄与していく嫡子が生まれたのだ。
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