播磨の酒 八重垣
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林田藩と八重垣 林田藩に興る 幕末の動乱 八重垣誕生
ヤヱガキの礎 産業革命 次代の創造

幕末、「箙(えびら)」の時代。

本が揺れた幕末、林田もまた激動のなかにあった。

の時代、長谷川家に関わりがあり、林田に大きな足跡を残した人物が登場する。河野鉄兜(こうのてっとう)である。

兜は、文政8年(1825年)網干の余子浜生まれ。15歳のときに一夜にして詩100篇をつくって神童と呼ばれ、儒学、国学、漢詩、和歌に秀で、学ばないものはないといわれるほどの知識人であった。「吉野懐古」の詩はとくに有名で、「日本外史」や詩文で名高い頼山陽の再来と讃えられ、その文名は全国に響きわたった。

田藩9代目藩主建部政和は、鉄兜を林田藩に呼び、自らの書記とするとともに、藩校敬業館の教授として迎えた。鉄兜は、攘夷運動にも関わり、各地から林田に集まった文人の中心となって活動していた。林田が世間に知られるようになったのは、鉄兜の存在も大きい。

兜が教鞭をとった敬業館は、学問好きの7代目建部政賢が創設した藩校であり、士族の子弟は8歳になると必ず入学しなければならなかった。また庶民でも志願者には入学を許可するなど開かれた教育の場であった。鉄兜はここで多くの子弟を教育し、文教の発展に貢献している。

兜は、長谷川栄忠と親交があり、慶応元年(1865年)、長谷川家の酒に「箙(えびら)」の名を与えている。箙とは、矢を入れ背中に背負うもので、長谷川家の酒の切れ味をあらわした酒銘であろう。

だたる酒豪で、明るく、大いに飲んで大いに語った鉄兜。自らが命名し、長谷川家が醸した「箙」も、好んで飲んでいたに違いない。


幕末の混乱

末の混乱は、播州林田藩にも押し寄せてくる。池田屋の変の4年後、慶応3年(1867年)、王政復古の大号令発布。 江戸幕府による統治は、ついに終焉を迎えた。

代は明治となり、酒造りは明治政府の重要な財源として厳しい統制を受ける。倒幕に相当の戦費を費やしたために、新政府誕生直後の最大の仕事は財政の安定を計ることであった。政府は廃藩置県にともない、酒株を廃止するなど、酒造りの全国的な統一を計る政策を実施する。当時、伊丹・池田の酒の勢いは衰え、摂津西部沿岸の灘の酒が隆盛を極めていた。

に大手酒造会社となる灘をはじめとする全国の酒屋と同じく、長谷川家も新制度の下で酒造りを続けることになる。

林田藩に興る 八重垣誕生
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ヤヱガキ酒造株式会社